(トップ画像は南ベトナムにかつて存在したエア・ベトナムのロゴマーク)
ベトナムで仕事をしていると、昨今の許認可の停滞に苦しんだり社会構造の諸々の矛盾に頭を悩まされることがよくあります。
この国が現在も維持している社会主義が諸悪の根源、とまで言い切るつもりはないものの、これがもし違った形になっていたら、ベトナムの姿そのものもまた大きく違っていたのではないかと思います。
「歴史に”if”はない」とはよく言ったものですが、そんな視点から、ベトナムの運命を良くも悪くも大きく変えることとなったベトナム戦争において、もしアメリカ側が勝利を収めていたらこの国はどうなっていたのかを史実との対比も交えながら考察してみました。…といっても僕は政治・経済・歴史いずれの専門家でもなく、あくまで素人によるエンタメとしてご笑覧いただけたら幸いです。考察の根拠はこれまで半年ちょっと書き連ねてきた本ブログの内容ということで、過去の記事のダイジェスト版みたいな感じですかね。いつもよりブログ内リンクを多めに貼っております!
なお、考察の前提としてはアメリカ側(南ベトナム)が完全勝利を収めベトナム全土を制圧、今日の朝鮮半島のような南北分断の状態は考えないものと仮定します。また、北ベトナムの残党も一掃されたものとします。
政治体制:民主主義
そもそもアメリカがわざわざベトナムに出張ってまで参戦してきたのは、当時西欧諸国の脅威となっていた共産主義の拡大を止めるためでした。中国やロシアの支援を受けていた北ベトナムがベトナムを統一してしまうと、その余波が隣国のカンボジアやラオスにまで波及してしまうという恐れがあったからです(そして、それは現実のものとなりました)。
もしアメリカ側が勝利していれば、その目標である民主主義が目論み通り達成されていたことでしょう。当時南ベトナムを率いていたのは軍事政権だったため、本当の民主化が実現するには少し時間がかかったかもしれませんが。
とにかく、政権は南ベトナムが握り、ベトナムの国旗は今の赤地に星のマークではなく南ベトナムが使用していた黄色い国旗になっていたでしょう。
アメリカが多大な犠牲を払ってでもベトナムの共産化を阻止したかったことからもわかるように、この政治イデオロギーがどちらに傾くかが、これから記述するあらゆることにも大きく波及していくことになったのは間違いないかと思います。
経済:自由経済・資本主義
ベトナムは戦争終結後、勢いそのままにカンボジアへ侵攻を行ったことで中越戦争を招き、当時の共産党下で敷かれた計画経済が失敗したことで約20年もの間大いに疲弊することになりました。アメリカ側の勝利に終わっていれば、ドイモイがなんとか機能するまでの約20年間の停滞を一気にショートカットし、自由主義経済のもと早くから大いに発展していたことでしょう。今日の発展が2000年頃には迎えられていたと考えると、今のタイあたりを追い抜かしていた可能性も考えられます。
戦争がもたらした交通インフラの壊滅はバイクの爆発的な普及を少なからず後押ししました。アメリカ支援のもと戦後復興がスムーズに進んでいたら、経済成長によるモータリゼーションの早期到来も相まって今日のようなイナゴの大群は見られなかった、かもしれません。
新政府は南北統一後、「再教育」の名のもと旧南ベトナムの華人や知識層を弾圧し、100万人を超える難民がボートピープルとして国外へ流出しました。彼らが現在も多額の外貨をベトナム国内に送金しているわけですが、もし彼らが国内に留まっていたらベトナムの経済成長をより力強く後押ししたことでしょう。ベトナムは今日東南アジアの中でも華僑の影響力が極めて小さいことが知られていますが、このとき国外各地に散らばっていなかったらその影響力は今も大きいものであったはずです。
旧北ベトナムの指導者層は現在に至るまで、主に旧ソ連圏への留学を重ねてきました。国内に留まることになったであろう南側の知識層たちは代わりに同盟国アメリカに留学し、最新のIT技術を国内に持ち帰って母国を今ごろハイテク大国にしていたかもしれません。
また、ベトナムはもともと石油やガス(特に石油)といった天然資源が豊富です。南ベトナムの時代から続く自由経済の中では外資が続々と参入して油田・ガス田を開発し、東南アジア随一の輸出国として名を馳せていたでしょう。
一方、急激な経済成長は同時に急激な出生率低下をもたらし、生活水準の底上げからくる食環境の改善と医療の発展はベトナム人の寿命大きく伸ばすことになったはずです。少子高齢化を現実より早く迎えることになるベトナムに対し、相対的に影響力を落としているであろう日本もこの分野ではけっこう貢献する余地があるかも?
首都:サイゴン
南側が勝利していたら、首都は現在のホーチミンで決まりでしょう。もちろん都市の名前は北の指導者の名前に変えさせられることなどなく、誇り高き「サイゴン」のままです。政治と経済を一手に担うことになるサイゴンはベトナム国内の需要をも一挙に引き受け、首都一極集中の状態に。対するハノイは田舎町のまま、古都ホイアンやフエのような位置付けに留まっていたことでしょう。
全国から職と教育を求めて人口は急増し、深刻な住宅不足解消のため新都市トゥーティエムはとっくに開発が終わっています。所得水準の急速な増加を受けモータリゼーションは既に到来しており、現在のジャカルタ並となった交通渋滞も大きな悩みの種に。トゥーティエムを起点とした地下鉄網の整備が現在よりずっと早く進められているはずです。
ひと口にベトナム語といっても南北に長いベトナムはそれぞれの地域で話される、いわゆる方言があるわけですが、サイゴンが首都になったら標準語は南部弁になっているでしょうね。
歴史観・その他
ベトナムの民族自決を目指した清廉なる指導者ホー・チ・ミンも、南ベトナム政府にとっては祖国を共産主義の沼に陥れる国賊。ホー・チ・ミン廟は破壊され、現在民家の隅々にまで浸透しているその肖像画が世に出回ることはなかったでしょう。当然ベトナムドンの紙幣にご尊顔を連ねることもなく、代わりに実際には幻の紙幣となってしまった1975年発行の南ベトナムドン札が満を持して流通していたはずです。
ベトナム各地に張り巡らされた通りの名前に、現在のように数多くの英雄の名前がつけられたかどうかも疑問ですが、少なくともレズアン通り、トンドゥックタン通り、グエンヴァンリン通り(いずれもベトナム共産党またはその前身となる党の指導者)などは確実に違う名前になっていたでしょう。一方南ベトナム時代に存在していたジョン・F・ケネディ通りは未だに残っていたかもしれません。
南ベトナム時代当時も忌み嫌われ、現在も同様に人気のないベトナム最後の王朝・阮朝(とその宗主フランス)は、アメリカ率いる連合国のよしみとしてその名誉を回復しているでしょうか。もしそうであれば、阮朝の創建者を冠したザーロン通りは未だにサイゴンに残り、逆に彼を残して広南阮氏一族を滅亡に追いやったグエン・フエは全国の通り名からその名を消している、かもしれません。
おわりに
ブログを書き始めて3か月経ったときの総括として、「ベトナム戦争について書くならちょっと捻ったものを書かないと」的なことを綴っていたものが、結局こういう形に帰結しました。
ここまで書いてみて、自分がいまベトナムで仕事をしているのは現在の世界線のなかでベトナムが遠回りをしながら少しずつ成長をし、まさにいまさらなる発展を遂げようとしている過渡期だからこそなのかな、と思いました。まだまだ改善の余地があるから日本人としてその手助けをできる余地もあるのであって、ベトナムとともに様々な社会問題を解決していくことが当地で働く者としての使命なのかなと。しかしそろそろいろいろ許認可下ろしてくれんかな〜。
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