ホーチミン新都市の光と影~「トゥーティエム新都市区」のいまむかし

penninsula ベトナムの歴史

ホーチミン市の旧2区・9区・トゥードゥック区が合併し、トゥードゥック市が誕生して早1年。そのトゥードゥック市の中心、ひいてはホーチミンの中心になると期待されている新都市、トゥーティエム。10年前に僕が初めてホーチミンに赴任したときにはまだ道路しかなかったのが、近年になって住宅を中心にようやく開発が進んできました。

ベトナムの金融・貿易を担う心臓部として、また将来の人口増を担う受け皿として今後ほぼ確実に発展が見込まれるエリアではありますが、過去には数々の苦難があり、そしてここ最近もなかなか一筋縄にはいかないようです。今回はそんなトゥーティエム新都市区の誕生前から現在までを追っていきたいと思います。

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はじめに

トゥーティエム(Thủ Thiêm/首添)はホーチミン1区とサイゴン川を挟んですぐ向かいにある約650ヘクタールの、川に囲まれた半島のエリア。650ヘクタールというと東京ドーム140個分、皇居5個分強、豊島区の半分くらい、といった感じです。わかったようなわからんような。トゥーティエムだけで490ヘクタールの3区より広くて、721ヘクタールの1区より小さい、くらいの規模感ですね。でかい。

こちらが区域全体の計画。2012年にアメリカの大手設計事務所であるササキ・アソシエイツによって披露されました。

ベトナムやほかの新興国にありがちな摩天楼だらけの非現実的なマスタープランとは違い、高さと密度がほどよく抑えられ、商業用途と住宅用途がバランスよく配置されています。よく引き合いに出される上海の浦東新区と比べても、大きな緑地帯があったり戸建ゾーンがあったりと、ずいぶんとゆったりしたプランに落ち着いたように思えます。

2008年には念願の第1トゥーティエム橋が土地収用難航により遅れに遅れながらも開通。2011年には1区の金融街から繋がる上下12車線のトゥーティエムトンネルが、日本のODA&大林組の施工により完成。これらによりトゥーティエムへのアクセスは格段に向上しました。第2トゥーティエム橋も初代と同じく何度も遅延しながら、2022年中には開通する…と言われています。

早くから形成されていた集落

かつての旧サイゴンからは対岸へ渡る橋が架かっておらず、また全体的に地盤が悪くて大規模な土地改良を必要としたため、これだけホーチミンの中心地に近い距離でありながら長らく大掛かりな開発がされずに放置されてきた場所でした。シムシティをやったことある人なら、川向こうの開発が難しいことがよくわかるはず。

しかし、対岸の川沿いに限っては、かなり早くから集落ができていたことが古地図を見てもわかります。

1815年。はっきりわからないが対岸に集落らしきものが確認できます
1896年。川沿いに家々が立ち並んでいるのがはっきり見てとれます。アンロイ村とな

なんとこの間の1862年には既に、トゥーティエムの計画があったとする記述もあります。うん、気持ちはわかる気持ちは。

浮かんでは消える計画図

フランス植民地時代の1928年には、対岸にサイゴンを拡張しようと計画した図面が残っています。図らずも?メイン通りが描かれているところに、まさに現在の目抜き通りであるマイ・チー・ト通りが走っています。当時の人はまさか、トゥーティエムの大部分より先に手前の兵器廠&造船所(のちのVinhomes Golden River)が再開発されるとは夢にも思わなかっただろうなぁ。

南ベトナム時代の1957年には現在の範囲に近い区域が早くも「トゥーティエム」の名前で計画されています。外交ゾーン(Khu Ngoại Giao;水色)と文化ゾーン(Khu Văn Hóa;オレンジ)が中心になっているのが興味深いです。なんてったって南ベトナムの首都ですからね。

1965年にはギリシャの事務所を起用して新たな計画を立てます。住宅用途を中心に、ところどころに水路を巡らせています。半島のへりはなかなか大味に切られており、また川沿いにある既存の集落は都市計画の対象から外れているように見えますね。

1972年には、アメリカはサンフランシスコの事務所によってかなり詳細な計画が立ち上がります。半島の曲線に沿って域内を走る道路のアイディアは、現在のトゥーティエムに繋がるところがあります。橋の架かっているところがビミョ~~に今とずれている。惜しい!

このようにおよそ1世紀にわたって断続的に計画は立てられたものの、それが実を結ぶことは長らくありませんでした。現行のプランが立ち上がったのは1996年のことです。

立ち退きが進まない

いくら既存市街地から橋がなく、地盤が悪いと言ったって、街の拡大とともに家は増えていってしまいます。ちんたら計画している間に、トゥーティエムは無秩序に、こんなにも集落が広がってしまいました。2005年の地図の抜粋です。道路沿いを中心に、全域に家(小屋)が建ってしまっています。

こうなると厄介になるのが立ち退き問題です。お隣中国がブルドーザーでざばーっと強制立ち退きする光景がよく目立つように、同じ共産党政権のベトナムも法的には強制執行ができることになっています。しかしたまに謎の民主制を出すこの国、立ち退きにおいては事実上100%対話型の対応を必要とするのが実態のようで、全国各地で補償問題に揉め数々の案件が遅延しています。

政府がトゥーティエムの立ち退きに公式に乗り出したのが2002年。6万人もの域内居住者を10年以上かけて立ち退かせ、それでも2013年時点で150件が未合意のまま残っていたといいます。不当に土地収用された人たちも多いとされ、住民の不満は20年以上にわたって続いています。

一方で対照的なのが7区のフーミーフン地区。こちらもトゥーティエムと同様、辺り一面湿地帯で土地の改良が必要であったこともありほとんど開発がなされてきませんでした。1980年後半まで構想すらなかったものが、土地代が安い1993~1994年の間に台湾系デベロッパーが一気に農民の立ち退きを終わらせ、さっさとインフラが敷かれてあっという間に完成してしまいました。今や、日本人や韓国人などの外国人、成功したベトナム人が住むホーチミン有数の高級住宅街となっています。

トゥーティエムでの不正行為が全国的な大混乱へ発展

そんななかでも徐々に徐々に、インフラ開発が進められてきたトゥーティエム。そこへ、後にベトナム全土を揺るがし2022年現在でも許認可手続きに多大な悪影響を及ぼす事態へ発展することになる大事件が発生します。

2010年代、不動産デベロッパーが土地を取得する手段のひとつとして主流だったのが建設・譲渡方式(通称BT;Build-Transfer)。お金のない政府に代わって民間が道路や橋などのインフラを整備してあげ、その見返りに土地を割り当ててもらうという手法です。政府はお金がなくても街が整備される、デベロッパーは「割安に」土地を得られるということで、全国各地で行われていました。

この「割安に」というのがミソだったわけで、これが汚職の温床となっていました。2016年に再選されたグエン・フー・チョン書記長は汚職摘発の名のもと政敵の粛正に踏み出し、トゥーティエムの土地を不当に安く割り当てて国家に損害をもたらしたとして、当時のホーチミン市トップ2人ほか大勢の役人が処分されました。この事件はベトナムの公務員に大きな衝撃をもたらし、以降役人たちは処罰を恐れて許認可の決裁を躊躇するようになったといわれ、現在に続く許認可の大幅遅延へと繋がっていきます。

(もちろん、トゥーティエムの事件が起訴される前にいくつも汚職事件が取り沙汰されていますが、当時はこの事件がもっとも早く噂されたもののひとつだったように思います。)

2020年代になっても続く怪しい取引

近年になっても不可解な事案が。つい昨年末、トゥーティエムの土地競売入札でとんでもない記録が飛び出しました。入札価格の8倍以上、なんだかんだ言ってもまだ開発初期でほとんど生活インフラのない周り原っぱの土地が、なんと現在の中心部であるグエンフエ通りやドンコイ通りよりも高値で落札され業界に衝撃が走りました。

ところが今年に入ってすぐ、落札した会社が一転購入を取り消すと発表。保証金として預け入れた約30億円が没収される事態となりました。年末の落札結果から周辺の土地代は急上昇したわけで、この落札→取消の動きは仕掛けた会社自身の持っているほかの不動産の価値を上げるため(そしてその不動産の担保価値を上げてより多くの資金を調達するため)ではないかとの疑惑も噂されています。

それでも前へ

紆余曲折がありながらも、どんどん開発は進んでいき、人々はトゥーティエムに住み始めています。今はまだほぼ空っぽのオフィスビルがポツンとあるだけですが、近い将来ここに勤務する人たちもたくさん現れることでしょう。この裏に広がるトゥードゥック市のほうが開発が進んでおり、より都心に近いトゥーティエムが新都心になるのはもはや時間の問題と思われます。早くからマンションを買ってるベトナム人の友達がうらやましい…!僕には手も足も出ませんが、これからも新都市の発展を見守っていきたいと思います。指をくわえて。

参考資料・画像引用元

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