ハノイの古地図を時系列に並べて街の成り立ちを紹介するよ(前編)

train ベトナムの歴史

以前、ホーチミンの古地図を紹介しながらその歴史を見ていきました。現時点では、当ブログのなかでも比較的多く読んでいただいているコンテンツということで、今回ついにハノイもやってみましたよ。

といっても、街自体はハノイ千年の歴史とはいえどもそんなに昔から地図がない…!ということで、大体がフランス植民地時代以降のものになります。フランス人は偉大だなぁ。。なお、古地図からだけでなく街の呼び名からもその歴史を学び取ることができます。合わせてご覧くださいまし。↓

ホアンキエム湖がまだ紅河と繋がってる!~1470年の古地図

まずは、1470年に作成された古地図から。「洪徳版図」と呼ぶそうで、タイ湖ほとりの鎮武観(クアンタン寺/Đền Quán Thánh)に掲示されています。

地図上部にあるのがタイ湖(西湖)。堤防で仕切られチュックバック湖が誕生するのは17世紀になってからです。タイ湖のすぐ下にあるのがタンロン城。北側の防備がより厳重です。その南には水辺に囲まれて「國子監」の文字が。これは1076年に文廟の後ろに建てられた、王族や貴族の子弟や官僚が学んだ学校。そのちょっと前の1070年に建立された文廟の記載はありません(文廟はどちらかというと高等教育機関として重視されてきたという特徴から、「國子監」にまとめられたようです)。

「國子監」の東側に描かれている「宝天塔」は、1056年に建てられたバオティエン塔(報天塔)とのこと。土地占いにより神聖な場所と示され、李朝第3代皇帝リー・タイン・トン(Lý Thánh Tông/李聖宗)により建立されたのち、1426年に中国(明)によって破壊。跡地にはハノイ大教会が建てられています。ということは、1470年に完成したこの地図の「宝天塔」は昔を想像して描かれたものだと考えられ、リー・クオックスー寺(Chùa Lý Quốc Sư/李国師寺)にもこの塔を想像した姿を描いた壁画があります。

「宝天塔」の東側に描かれた水辺は、ハノイのシンボル・ホアンキエム湖ですね。当時は紅河(ホン川)と繋がっていたことがわかります。ちなみに、タイ湖もかつては紅河と繋がっていたと考えられていて、こちらも堤防建設によって分断され、現在は湖になっています。

川と湖に囲まれた町~1873年の古地図

誠に恐れ入りますが、↑の地図から一気に400年飛びます。だってベトナム人、全然地図作ってくれないんだもん。。

1873年、既にフランスに植民地化されています。城下町として発展している現在の旧市街以外は、現在のハイバーチュン区・バーディン区・ドンダー区にちらほらと集落が見えるのみ。しかしさすがの紅河デルタ、辺り一面湖だらけです。ようこんなとこに町つくったな…当時の人たちはまさかハノイがこの先こんなに巨大化するとは夢にも思っていなかったでしょう。この湖たちのほとんどが後に埋め立てられることになります。ちなみにタンロン城の南側にある湖と集落が入り混じったエリアは今でも、ハノイのなかでも最もごちゃっとしてるエリアとして残っています。

以前の記事でも触れた通り、La Thành通りが町の最果てとして東西に走っているほか、ホアンキエム湖から南に伸びるHuế通り、タンロン城から南へ走るLê Duẩn通り、文廟から南西へ伸びるTôn Đức Thắng通りなどがこの時点から確認できます。

幻のハス寺と、その名残(ちょっと邪魔)~1885年の古地図

すぐ上の地図と時代的にはほぼ同じです。が、かなり高解像度のデータが入手できたので、この時代の旧市街に少しズームインしてみることに。

赤い建物はフランス政府のレンガ造りのもの、グレーは藁葺きのものでベトナム人が住んでいたと思われます。ホアンキエム湖に浮かぶ玉山祠(Đền Ngọc Sơn、地図ではChùa Ngọc – Sơnと書かれている)も見てとれます。ちょっとわかりづらいですが、Cầu Gỗ通り、Hàng Gai通り、Hàng Đào通りなど現在の名称がこの時点で既に使われています。大小の湖と、旧市街の北側には運河と思われる水路も流れています。

ホアンキエム湖の南側にフォーカスしてみます。現在のヒルトンハノイオペラのある辺りの裏側は大きなフランス人居留地になっています。そしてホアンキエム湖ほとりには、Chùa Quan Thượngという建築物が。ハス(蓮)で覆われた湖に囲まれた、通称「ハス寺」は1842年に建てられたものの、この地図が描かれた3年後の1888年にフランス政府によって取り壊され、現在まで続く郵便局に建て替えられます(現存する郵便局は1960年に再建)。

そんなハス寺の痕跡を残すものがありました。

ホアンキエム湖のすぐ脇にポツンと立つこいつ(ホアフォン塔/和風塔/Tháp Hòa Phong)です。こいつは通行に邪魔だしなんなんだろうとずっと不思議に思っていたので、ひとり勝手にスッキリしています。

ハス寺とホアフォン塔との位置関係はこんな感じ

鉄道時代の幕開け~1928年の古地図

続いて20世紀に入り、1928年です。

街が東西方向に広がってきています。西側はトーリック川(Sông Tô Lịch/蘇瀝江)を越えて集落ができはじめ、東側にはついに紅河の向こうにも集落がつくられています。その立役者といえば何といってもロンビエン橋でしょう。ハイフォンとハノイを鉄道で結ぶ目的で造られ、1902年に完成。当時の名前はインドシナ総督の名前から取られ、ポール・ドゥメール(Paul Doumer)橋でした。

竣工当時のロンビエン橋(ポール・ドゥメール橋)。インドシナで最も大きく、最も美しい橋といわれた

そしてその鉄道自体も同時に完成しています。現在と同じ位置にハノイ駅・ロンビエン駅・ザーラム駅がともに1902年に完成、鉄道運行を開始しました。

さらには、鉄道に先立ち1901年にはなんと最初の路面電車も開業しています。路面電車は計5路線運航され、財政難に苦しめられながらもなんと1989年まで存続しました。

1号線と前出のホアフォン塔の夢のコラボ
  • 1号線 – ホアンキエム湖(Petit Lac)-バックマイ(Bạch Mai):1901~1982
  • 2号線 – ホアンキエム湖(Petit Lac)-Giấy村 (現在のBưởi市場):1901~1989
  • 3号線 – ホアンキエム湖(Petit Lac)-文廟-タイハ村(Thái Hà Ấp):1904~1982 ※1914年にハドン(Hà Đông)まで、1938年にCầu Đơ市場まで延伸
  • 4号線 – Place des Cocotiers(ホアンキエム湖の次の停留所)-コウザイ(Cầu Giấy) :1907~1986 ※1986~1993はトロリーバスとして運行
  • 5号線 – Mandarine(現在のLê Duẩn通り)-イェンフー(Yên Phụ):1930~1982 ※1943年にRené Robin Hospital(現在のバックマイ病院)まで延伸
ハドンに停車する3号線

ハノイがこんなにも充実した交通網を持っていたとは正直驚きでした。旧市街を中心として、見事に四方に展開されています。

ということで今回も1回では終えられませんでした。次回へ続きます!

参考資料・画像引用元

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