ひさびさの歴史シリーズ。ベトナムに関する日本語の歴史書がなかなかベトナムで手に入らないなか、いささかマイナーではありますがKindleで読むことができた『クォン・デ もう一人のラストエンペラー 』(角川文庫)をまとめてみました。
アジア唯一の列強国に学び、その支援を得てベトナムを解放しようと半世紀近くも日本から祖国を憂いながら、その願いが叶わず家族にも再会することができなかった阮朝王族の悲哀に満ちた物語です。悲運の人物の名前はクォン・デ(Cường Để / 彊㭽)。生涯のほとんどを過ごした日本においてもその名前は忘れられ、祖国ベトナムにおいては意図的に忘却の彼方へと追いやられたその一生を、ひとつの記事にまとめるのはなかなか厳しいものがありました。ちょっと駆け足にはなりますが、当時の時代背景も踏まえて簡単にご紹介します。
時は19世紀末期。ベトナムはフランスによって植民地化され、民衆の生活は困窮を極めていました。
ドンズー(東遊)運動とその終焉
ベトナムのフランスによる支配は、実は阮朝成立の時点からそのルーツをみることができます。グエン・フエ(Nguyễn Huệ/阮惠)率いる西山朝に、自分以外はすべて滅亡させられたグエン・フック・アイン(Nguyễn Phúc Ánh/阮福映)が、フランスの支援を得ながら創建したのが阮朝でした。その後フランスは実際に植民地支配を始め、ベトナムの民衆は文化面もさることながら、極度の重税を敷かれて困窮にあえいでいました。収入の3分の2は植民地政府に搾取されたと言われており、ヨーロッパやアフリカへ強制連行されて労働させられた人たちもいました。
そんな窮状に立ち上がったひとりが、貧しい出でありながら地域で神童とも評されたファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu/潘佩珠)でした。科挙試験に合格するものの役人の職には就かず、祖国解放のために各地を飛び回り、そして阮朝始祖グエン・フック・アインの直系5代目であり若年ながらも聡明と名高いクォン・デを自らの革命組織「維新会」の盟主となるよう懇願します。当時フランスにあまり協力的でなかった皇帝に代わって仏印総督がクォン・デを帝位に就かせようとしたものの、それをあっさり断ったというクォン・デはフランスに屈しない王族として、若いうちから国民のあいだでカリスマ的な存在になりつつありました。とりわけ美しい妃とふたりの子どもを持ち、王族として何不自由ない身ではありましたが、ファン・ボイ・チャウに心酔してこれを承諾します。
ファン・ボイ・チャウはベトナム解放のためには武器の調達が必須と考え、当時アジアの中では破竹の勢いで列強国としての仲間入りを果たしていた日本へと目を向けます。日清戦争・日露戦争に勝利した日本は、ベトナムのみならずアジアや中東各国の民族主義の希望となっていました。また、この時代の日本にはアジア中から亡命者や留学生が集まってもいました。日露戦争のさなか、ファン・ボイ・チャウは日本へ密入国し、遅れて入国してきたクォン・デとともに、大物政治家であった犬養毅や大隈重信の支援を受けます。武力蜂起よりも前に同志を日本で学ばせることが先決と判断したふたりは本国より多くのベトナム人留学生を呼び寄せ、兵学や政治学を学ばせました。日本のベトナム人留学生は最盛期で200人を超え、東遊運動(ドンズー運動/Phong trào Đông Du/風潮東遊)と呼ばれるようになりました。
しかし、この動きを危惧したフランス側は留学生の親族を投獄するなどして拡大を阻止。家族の身を案じて帰国した留学生は処刑されました。また日露戦争には勝利したものの日本は経済的に疲弊しており、国民の不満も限界に達していました。日本はフランスに多額の借款を引き受けてもらう代わりに日仏協約を受け入れ、フランスと協調する道を歩み始めました。フランスは日本に対しベトナム人留学生の国外退去を迫り、東遊運動は終焉を迎えます。
こうして失意のうちにファン・ボイ・チャウはベトナムに帰国。広東で維新会の後継組織「光復会」を結成し革命運動を続けるも、その後捕らえられて終身刑を宣告され、恩赦によりフエにいるクォン・デの家族に再会できるようにはなりますが、軟禁状態に置かれたまま夢半ばに生涯を閉じます。そしてクォン・デはファン・ボイ・チャウとともに新たな資金集めのためベトナムには再入国するものの、結局家族のもとには帰れず、ヨーロッパへ亡命したのち日本へと舞い戻ってきます。
その後、二度とベトナムの地を踏み入れることはなかった
日本では、西欧列強に対抗するためアジア各国の独立を支援し、大きなアジア圏をつくるという思想から、日本以外のアジアは西欧に支配されるだけの劣等な民族たちであるという選民思想が蔓延していきました。朝鮮は併合され、クォン・デらを支援していた犬養毅は総理大臣になったのち、五・一五事件で凶弾に倒れます。そして軍部主導で第二次世界大戦へと突入し、フランスがドイツに降伏したのを機にベトナムに侵攻します。日本軍はクォン・デを担ぎながらホー・チ・ミンのベトミン(ベトナム独立同盟)を統合して一気に攻略する作戦を立て、クォン・デは喜々としながら毎日のように作戦会議に出向きます。しかし侵攻直前になって作戦は変更され、仏印の内政に干渉せず、独立運動を支援しないことを条文とした協定がフランスと結ばれたのでした。
ベトナム中で「遠い東の国から王子様が帰ってくる」という歌が唄われ、日本軍によって国じゅうにばら撒かれたクォン・デの写真を信じたベトナムの民衆は、ハノイに進駐した日本軍を日章旗を持って盛大に出迎えたといいます。しかし日本で飼い殺し状態となっていたクォン・デは一向に民衆の前に現れることはなく、抗仏運動の立役者はホー・チ・ミン率いるベトミンへと移っていくことになります。
サイパンを失い敗色濃厚となっていた日本軍は、起死回生を狙ってインドシナの支配に乗り出します。日仏協約を破棄し、ベトナム国内でクーデターを起こしてフランスの武装解除を迫りますが、ここで担がれたのはクォン・デではなく、ベトナム最後の皇帝となるバオ・ダイ帝(保大/Bảo Đại)でした。ここでも帰還を果たせなかったクォン・デでしたが、バオ・ダイの放蕩ぶりとその傀儡政権の背後にある日本軍部への不満が噴出。ホー・チ・ミンによるベトミンの反発もすさまじく、ベトナム国民懐柔のため日本軍は今度こそクォン・デを擁立する計画に本腰を入れ始めます。終戦間際となった1945年7月にはクォン・デ帰還の予告記事がベトナム国内の新聞に大きく掲載され、人々は熱狂。ベトナム各地で凱旋門が突貫的に建造され、東京では総理大臣主催の壮行会が華々しく開催されました。
クォン・デは毎日、羽田空港に向かいサイゴンからの迎えを待ちますが、何日経っても迎えがくることはありませんでした。ひたすら迎えを待つあいだ、世田谷の自宅は空襲により消失し、広島と長崎に原爆が落とされ、ついには戦争そのものが終結してしまいます。またしてもクォン・デの帰還が果たされることはなかったのです。
終戦から5年後、冷戦を背景として南北ベトナムが内戦を繰り広げるなか、クォン・デは祖国を統一させるため再度ベトナムへの帰還を試みます。しかしこの計画は中継地点のバンコクに至る途中で漏れ、バンコクに上陸することすら叶わぬまま、クォン・デは帰路で廃人同然になってしまったといわれています。翌年、クォン・デは末期の肝臓癌によりこの世を去ります。
なぜクォン・デは日本からもベトナムからも忘れ去られてしまったのか
クォン・デは40年もの間、ベトナム解放の救世主として民衆から熱狂的に支持されており、その帰還を待ち焦がれられていました。しかしその悲願が叶うことはなく、日本の敗戦の前後あたりから「王子はベトナムを捨て、日本で家族をつくり贅沢に暮らしている」という噂が流れ始め、その期待は急速にしぼんでいきます。かつては全国にクォン・デの名前が付いた通り名や公園などがあり、教科書にも記載されていたようですが、やがて「日本に頼りすぎ、結局ベトナムを捨てた売国奴」というレッテルを貼られその名を徐々に消していくことになります。本書のなかでも、ホーチミンはおろかクォン・デの故郷である王都フエでさえ、その名を知る人はほとんどいないと語られています。クォン・デと半生を共にし、祖国解放の悲願を果たせなかったという意味では変わらないファン・ボイ・チャウが現在に至っても英雄として人々の記憶に残り、ベトナム全国の街にその名前が残されているのとはえらい違いです。「日本狂い」とも評されたファン・ボイ・チャウは日本の態度に激怒し、日本に対して公式に批判を叩きつけた以後日本には一切頼らず死んでいったところが人々の印象を180度変えているのかもしれません。
上記のクォン・デが日本で結婚し子供がいるという話は21世紀に入っても、阮朝の研究者の間でさえも定説になっていました。なおベトナム語版Wikipediaには、クォン・デは安藤成行という人物と結婚し一子を設けたという記述が今も残っています。安藤成行は実際には、クォン・デが晩年連れ添った世話係安藤ちゑのの甥で、当然ながら男性です。他のベトナム語の記事でも、やはり日本で結婚し安住したと記載されています。
現在、クォン・デの名前を通り名に見られるのは南部のいくつかの省に限られます。といっても阮朝の王族のなかではクォン・デが特別例外なのではなく、基本的に「阮朝=フランスの傀儡=ベトナム共産党の敵」という位置付けのため、全国的に名前が残っているのはフランスに対して抵抗運動を展開した第8代皇帝ハムギ帝(咸宜帝/Hàm Nghi)くらいではあります。
おわりに
ファン・ボイ・チャウはベトナムではもちろんのこと日本でもそれなりに有名で、2013年には両国国交樹立40年を記念して同氏を主人公としたスペシャルドラマが両国で放映されたりもしています。それに比べてクォン・デの資料は圧倒的に少ないなか(ベトナム語のネット記事も本当に少ない)、同氏に焦点を当てて調査を重ねた本書はとても貴重なものでした。クォン・デの生活拠点が日本だったことや、彼を取り巻く不運の数々が当時の日本の時代背景や思惑からきていることもあり、日本を中心に中国・朝鮮方面の情勢やクォン・デの日本での無為で空虚な生活にも多くの紙面が割かれています。当記事ではそのへんバッサリいってしまいましたが、孤独な王族の悲哀をさらに味わいたい方は本書のほうもどうぞ。
参考資料・画像引用元
- クォン・デ もう一人のラストエンペラー (角川文庫)
- Bao Phap Luat
- Wikipedia
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