ホーチミンの旧名といえばサイゴン。ハノイの旧名といえばタンロンですね。しかし!ホーチミンの旧名はほぼサイゴン一択ですが、ハノイはそうではないのです。そこはさすが「千年の都」、これまでいろんな風に呼ばれ、親しまれてまいりました。今回はそんなハノイの呼び名の変遷を辿ってみたいと思います。
コーロア(Cổ Loa/古螺)B.C.258~B.C.208
紀元前1000年頃には紅河流域に人々が定着し、ドンソン青銅器文化と呼ばれる文明が育まれていたようですが、ハノイが地名としてはじめて出てくるのは紀元前3世紀頃。ベトナムで最初の国家とされる文郎国(Văn Lang)の次に興った甌雒(Âu Lạc)という国家の都で、 現在のドンアイン県に位置していました。建てられた城塞が巻貝に似ていたことから螺(タニシ)城と呼ばれ、そのまま地域の語源となったとか。
現在日本の住友商事が現地デベロッパーと組んで近くでスマートシティを開発しています。温故知新の精神で、その中心にはぜひスマートタニシ城を再建してほしい。
ロンビエン(Long Biên/龍邊・龍編)3世紀頃~
現在もその名が残るロンビエンでは、中国が漢の時代にその支配下に置き命名。その後わずかに中国の支配を逃れた前李朝の時代には、 李朝により建国された萬春(Vạn Xuân)の首都にもなっていました。勝手にタンロン=昇龍のかたわら→ロンビエンなのかなと思っていたらとんでもない、ロンビエンのほうが全然先輩でした、たいへん失礼いたしました。
2007年にタインチ橋が、2009年にビントゥイ橋が開通してからというもの、ロンビエン区をはじめとしたハノイ東側の発展は目覚ましいですね。ハノイ市内にとどまらず、周辺省でも都市開発が進んでいます。
ダイラ(Đại La/大羅)またはラタイン(La Thành/羅城)866~1010
唐の時代、雲南省から南シナ海への交易路上にあったハノイは唐の支配下に置かれ、その長官であったカオ・ビエン(Cao Biền/高駢)によって城壁が築かれました。この城壁は大羅や羅城と呼ばれ、現在でもバーディン区のLa Thành通りとして残っています。
これは19世紀のハノイですが、いちばん南の赤い道路がLa Thành通りかと思われます。当時から7km近くあったようで、すでに紅河から今のVタワーの近くまであったことになります。。のちのタンロン城の基礎にもなっているように、南側より一段高くなっていて、通りの東側の方はその名残りで未だにĐê La Thành(Đêは堤防の意味)という名前のまま。実際にLa Thành通りを走ると、お店の看板がLa ThànhだったりĐê La Thànhだったりと表記がまちまちでなかなか混沌としてます。
タンロン(Thăng Long/昇龍)1010~1397
リー・タイ・トー(Lý Thái Tổ/李太祖)によって首都がハノイへ移され、タンロンと名付けられました。一般的にここからがハノイの始まりとされていて、その名が使われた時期も長かったことから、ハノイの別称としてもっとも定着した名前となっています。ノイバイ空港から市内へ向かう際に渡るタンロン橋やホアラック方面へ向かう大動脈となっているタンロン街道のほか、いまもさまざまな施設や組織の名称に使われています。
ドンドー(Đông Đô/東都)1397~1407
陳朝に続いて興った胡朝時代には東都という名前になりました。胡朝が首都を置いたタインホア(清化)に対して東にあったから東都、ということですが、実際の経度としてはほぼ一緒じゃない?むしろ明らかに「北都」じゃない?
しかしこの胡朝、国旗がダサかったためわずか7年であっけなく滅亡。東都の呼び名も短い命でした。
ドンクアン(Đông Quan/東關)1408~1427
中国(明)に支配され、ハノイも交趾郡(Giao Chỉ)の町として東關と呼ばれるようになります。下の地図のJiaozhiと書かれている部分が交趾郡で、「コーチシナ」の由来にもなっています。
東關は「東の門」という意味なのですが、僕には「西の門」にしか見えません。どこから見て「東の門」なのでしょうか。
トンキン(Đông Kinh/東京)1428~1802
我ら(誰ら?)が将軍レ・ロイ(Lê Lợi/黎利)様によって明からベトナムの手に戻ったハノイ。レ・ロイはこの地を首都とし、東の都という意味のトンキンとします。漢字で書くと東京。のちにハノイで設立された東京義塾や、トンキン湾事件の舞台として知られるトンキン湾の名称にも使われているように、タンロンとともにベトナムの方に広く浸透している名前ですね。ただしベトナム人はトンキン湾のことをバクボ湾(Vịnh Bắc Bộ/泳北部)と呼ぶようです。どっちやねん。
バクタイン(Bắc Thành/北城)1802~1831
阮朝を創設した嘉隆帝ことグエン・フック・アイン(Nguyễn Phúc Ánh/阮福暎)が、首都フエに対して北城と名付けました。うん、今度こそ妥当な名付けだ。第2代ミンマン帝(Minh Mạng/明命)がハノイに変更するまでの間使用されました。河内より北城のほうがカッコイイと思うけどな~。
ハノイ(Hà Nội/河内)1831~
やっとハノイまで辿り着いた。。長かった…。2010年は首都ハノイ生誕1000周年ということで相当いろいろな記念行事が行われたようですが、2031年もハノイという名前に対して200周年ということでまた盛り上がりそうですね。その頃僕はどこで何をしているのかな。。
念のためハノイの名前の由来をご紹介しておくと、当時のハノイ(現在のホアンキエム、バーディン、ドンダー、ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河(Sông Hồng)とトーリック川(Sông Tô Lịch/蘇瀝江)に囲まれていたからで、まさにその名の通り。そしてWikipediaの説明通りにもなってしまった。
参考資料・画像引用元
- ハノイ歴史研究会
- ベトナム建築MAP
- 旅のとも、ZenTech
- Wikipedia
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