【革命】歴史的な出来事や重要な意味を持つ言葉のついたベトナムの通り名【統一】

south vietnam map ベトナムの歴史

なかなか思うようにアクセスの集まらない「ベトナムの通り名」シリーズですが、久々に原点に立ち返り自らを奮い立たせて書いてみますよ(実際にはなかなか奮い立たず、仕事を言い訳にずいぶん時間が経ってしまいました!)。ベトナムの通り名といえば救国の英雄や輝かしい功績を挙げた偉人が多いわけですが、今回はベトナムにおける歴史的な出来事や、ベトナムにとって重要な意味を持つ言葉のついた通り名を取り上げていきます。通り名の命名にまつわる法令にもちゃんと定められている項目ですね。

個人的にはめっちゃ好きな記事なのにさっぱり伸びん。。

「ここへきて定番のネタかい」とか言わんといて。しっかりオリジナリティ出していきますから…!

Độc Lập(独立)通り、Tự Do(自由)通り、Hạnh Phúc(幸福)通り

「独立ー自由ー幸福」。どこかで見たことある並びだなと思った方は、ベトナム政府の公式文書によく目を通されている方ですね。公式文書の冒頭に必ず記載されている表記で、国の標語にもなっている3単語です。もともとはホー・チ・ミンによる独立宣言のなかで、ベトナムの人々の重要な権利として主張されたものでもあります(特に独立と自由)。独立宣言直後の1945年10月の文書から現在まで変わらず使われ続けています。

Tự Do通りは現役の通り名として全国各地に点在しているのはもちろん、現在ホーチミン中心部を通るドンコイ通り(後述)の旧名としても有名です。

「独立・自由より尊いものはない」

Thống Nhất(統一)通り

南北に分断されたベトナムという国を「統一」するのは(北)ベトナム人の悲願でした。長きにわたるベトナム戦争で大きな犠牲者を出しながらも、1975年のサイゴン陥落とともにベトナムは統一されることになります。われわれ日本人には通り名というよりも統一鉄道や統一会堂、トンニャット(統一)公園のほうが馴染みが深いかもしれませんね。

ハノイのソフィテル・レジェンド・メトロポールホテルも、フランスを完全に排除した1954年から再びフランスのプルマン・ホテルズ(現アコーグループ)との合弁に至る1992年の間は国営のトンニャット・ホテルとして運営されていました。

 
旧トンニャット(統一)ホテル(写真は当時はまだなかった新館のほうだけど)

Đồng Khởi(同起)通り

ホーチミンを代表する観光スポットとしてあまりにも有名なドンコイ通り。もちろん全国にあります。由来はアメリカと南ベトナムに対する反乱を呼びかけたドンコイ運動(Phong trào Đồng khởi/風潮同起)。1959年に南部のベンチェーで始まり、南部の地域から中部ベトナムへと一気に広がっていきました。

Tự Do通り時代の、1966年のドンコイ通り。古き良きサイゴンって感じ

ドンコイ運動の中心的役割を果たしたグエン・ティ・ディン(Nguyễn Thị Định)は南北ベトナム統一後、要職を歴任した末に国家副主席にまで出世しています。日本人にはあまりなじみのない名前ですが、全国にその名の通りがあります。

上に記した通り、ホーチミンのドンコイ通りは戦争終結後の1975年にTự Do通りから改名されました。「ドンコイが立ち上がり、自由(Tự Do)を失った」(Đồng Khởi vùng lên, mất Tự Do)という詩があるように、南ベトナムの人からするとたいへん屈辱的な通り名でもあります。

わかりにくいけど、1960年の地図に後述のCông Lý通りと合わせてちゃんと載ってます。

Cách Mạng Tháng Tám(八月革命)通り

ベトナム語のとおりに表記すると「革命月八」となります。現在のベトナム社会主義共和国の前身となるベトナム民主共和国の成立につながる出来事で、日本も少なからず関係しています。

時は第二次世界大戦。フランスはドイツに降伏し、ドイツの同盟国だった日本がベトナムへ進駐してきます。以降ベトナムを共同統治していた日本とフランスでしたが、連合国軍のベトナム上陸を懸念しフランスと共同でそれを阻止したい日本と、拒否したフランスの間で戦闘に発展。1945年3月、日本軍はフランス植民地政府を打倒しベトナムを単独で支配するに至ります。それまでフランス政府に支配されていたベトナム王朝の阮朝も日本側につくことになり、阮朝皇帝バオ・ダイを宗主とするベトナム帝国が誕生します。

しかし日本に原爆が2度投下され敗色濃厚とみたホー・チ・ミンは総蜂起を指示。日本の無条件降伏直後の8月17日にはハノイで武装蜂起が勃発し、8月19日にはハノイの政府機関の制圧に成功します。この蜂起はハノイのみならずフエ、サイゴンへと発展。8月30日にはバオ・ダイが退位しここに阮朝は滅亡します。そして日本がポツダム宣言に調印した9月2日にベトナム国内ではホー・チ・ミンが独立を宣言したのでした。

独立宣言(Tuyên ngôn Độc lập)の原稿

ベトナム語版Wikipediaでは明確に「日本(帝国)に対して蜂起を繰り広げた」と記載されています。八月革命通りにオフィスを構えようとしている日系企業さんは、お節介ながらこのあたりの歴史をよくよく押さえた上で検討することをオススメいたします。

圧倒的に有名で通りとしても多いのは八月革命ですが、それ以外にもCách Mạng Tháng Mười(十月革命)通りや、プレーンなCách Mạng(革命)通りもあります。

Nam Kỳ Khởi Nghĩa(南圻蜂起)通り

八月革命から遡ること5年。1940年、ベトナムを共同統治していたフランスと日本への不満は南ベトナムを中心に徐々に高まり、同じく全国の通り名となっているヴォー・ヴァン・タン(Võ Văn Tần)やファン・ダン・ルー(Phan Đăng Lưu)らの指揮のもと武装蜂起が計画されます。南部の18省で蜂起は展開されるものの、フランス政府によって鎮圧され、多くの共産党幹部が処刑されています。”ザップ兄貴”ことヴォー・グエン・ザップ将軍の義妹であり、ホー・チ・ミンと事実上の結婚状態であったともされるグエン・ティ・ミン・カイ(Nguyễn Thị Minh Khai)もこのとき逮捕され、翌年処刑されてしまっています。

ナムキ(南圻)とは阮朝時代の南部地方の行政区分で、同様に北部は北圻、中部は中圻と呼ばれていました。

実は先の「ドンコイが立ち上がり、自由を失った」という詩の前節には、「南圻蜂起が正義(Công Lý)を破壊した」(Nam Kỳ khởi Nghĩa, tiêu Công Lý)という一文があります。ナムキーコイギア通りもドンコイ通りと同じく、ベトナム統一後に北ベトナム政府によってCông Lý通りから変更されたのでした。

当時Công Lý通りだった1966年のナムキーコイギア通り

八月革命通りと同様、こちらもKhởi Nghĩa Bắc Sơn(白山蜂起)通りやTrà Bồng Khởi Nghĩa(茶蓬蜂起)通りといったバリエーションがあります。

Xô Viết Nghệ Tĩnh(Совет乂靜)通り

ゲティン・ソビエト。その名前から共産色が色濃く香ってくるこちらの出来事は、1930年から1931年にかけて、フランス政府や地主に対して農民や労働者が起こした蜂起運動になります。抵抗運動によりフランス政府や傀儡のフエ政府を一時退けることに成功するものの、半年も持たずに返り討ちに遭っています。

ゲティン(Nghệ Tĩnh)とは現在のゲアン省とハティン省の2地域を指すもので、当時も2省に分かれていましたが1975年から1991年にかけては2省が合併したゲティン省が実際に存在していました。ソヴィエト(Совет)は直訳すると「評議会」で、まさにその名のイメージの通り、労働者階級による集合体を指します。

Cao trào Xô viết Nghệ Tĩnh - sự lựa chọn của lịch sử ảnh 8
ゲティン・ソビエトといえばコレ、というくらいよく使われる絵(Nguyễn Đức Nùng作)

ナムキーコイギアしかり、ゲティン・ソビエトしかり、結果的には弾圧されていますがこれらの蜂起は人民の心を大いに奮い立たせたとして、今でも多くの通り名にその名を残しています。

Cộng Hòa(共和)通り

ベトナムの正式名称であるベトナム社会主義共和国のほか、南北に分断されていた時代も北ベトナム(ベトナム民主共和国)・南ベトナム(ベトナム共和国→南ベトナム共和国)双方で掲げられていた言葉です。共和制とは、国家の所有や統治権を個人(君主)ではなく人民が持つことを指すもので、対義語は君主制です。どうりでそこら中で「人民」という言葉を見かけるもんだ。ちなみにNhân Dân(人民)通りもあります。

Bản đồ việt nam trước 1975
ベトナム共和国(Việt Nam Cộng hòa)の地図。カワイイ!

おわりに

「まめべと」の名に恥じない微細なまめちしき、というかもはや豆を通り越してゴマちしきを散りばめた形になってしまいました。。何気なく口に出している通り名のなかに、けっこう過激なイベントがちりばめられていることに少し驚きますよね。常に他国から侵略・支配されてきたベトナムの耐えがたい負の歴史が浮かんできます。

参考資料・画像引用元

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