以前、グエンさんのルーツを辿ってみたら中国三千年の歴史を辿ってしまった話を書きました。
今回は、グエンさんに限らず「ベトナム人」というくくりでルーツを辿ったらどうなるのかを調べてみましたよ。まずはベトナム人のみんなが大好き?な雄王(フン・ヴォン)からいってみましょう。
雄王(Hùng Vương) 紀元前2524年~紀元前2253年(在位)
ベトナム史上最初の王朝とされる文郎国を建国した人物。下に紹介する貉龍君と嫗姫の間に生まれた100人の子のうち、両親が離婚して父方についた50人の長子。なお文郎国の世主は全員雄王で、滅亡まで18代の雄王がいたと伝えられます。ただし、実は初代雄王は涇陽王(こちらも下記参照)であり、この項で言っている雄王(正しくは雄國王/ Hùng Quốc Vương)は雄王としては3代目、という説もあります。
いきなりややこしい話ですね。文献自体がけっこう混乱してます。。
ホーチミンでは5区を東西に走る道として、ハノイではホーチミン廟や大統領府、ベトナム共産党中央局の前を通るめちゃめちゃ重要な通りにその名前がつけられています。
貉龍君(Lạc Long Quân) 紀元前2793年?~紀元前2524年?(在位)
妻の嫗姫(Âu Cơ)との間に100人の男子をもうけたということで、けっこう人としては怪しい域ではありますが、女性側の嫗姫はともかく男性側だったらアンジャッシュ渡部くらいの精力であればあながち無理ともいえなくもありません。また在位期間だけで270年近くとずいぶんと長生きでいらっしゃいますが、まあ昔は気候も温暖で寿命が長かったのかもしれません(適当)。ベトナム語の文献ではベトナム初の王朝とされる赤鬼国(鬼ヶ島か)生まれの貉龍君までがギリギリ純ベトナム人と考えてよいでしょう。ホアンキエム伝説のカメさんは、この貉龍君の使いだといわれています。
ハノイでは、Lạc Long Quân通りはタイ湖の西側を、Âu Cơ通りはタイ湖の北側を走る通りとしてともに名前が残っています。
ベトナム人としてカウントできるのはここまで。以下辿れるところまで辿ってみました。
涇陽王(Kinh Dương Vương) 紀元前2879年?~紀元前2793年?(在位)
貉龍君の父。まめべと調べで、この人がベトナムの通り名として使用されている人の中で最古(ホーチミン6区~西のビンタン区)。父親に才覚を見出されて王様の位を譲られるところを断ったため、兄が北部を、自分が南部を統治することになり、その国が前出の赤鬼国になった、というエピソードしか語られない若干影薄な存在。
炎帝神農(Thần Nông) 紀元前3035年頃
涇陽王の曽祖父にあたり、古代中国の三皇五帝と呼ばれたうちのひとり。医薬と農業の神さま。判明しているなかで日本最古の人といわれる卑弥呼さんの2800年くらいパイセンになります。パシるパシられるのレベルじゃない。。
炎帝神農の父は、同じく中国の三皇五帝のひとりである黄帝の父ともされますが、一説には目が4つあるとかでちょっとおよそ人間とは呼べないレベルまで来てしまったのと、これ以上遡れなさそうなのでここで終了。
おわりに
グエンさんの旅のときのようにある程度予想はついていたものの、今度は中国五千年まで辿り着いてしまいました。そしてその先には妖怪っぽい存在まで…。
結局ベトナム人のルーツはどうしても中国ということですね。ベトナムと中国はやはり歴史的に見ても兄弟のようなもので、どれだけいじめられても切っても切れない縁で結ばれていると。ベトナム人はイヤでしょうけどね。。
参考資料・画像引用元
- 物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム(小倉貞男著、中公新書)
- langmyloi
- Huynh Hieu Travel
- 中国历史
- Wikipedia
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