ホーチミンの古地図を時系列に並べて街の成り立ちを紹介するよ(前編)

bird eye map ベトナムの歴史

古地図、っていいですよね。僕は古地図とGoogleマップを見比べているだけでけっこう何時間もいけてしまうタイプです。みなさんもきっとそうですよね?ね?

ということで、今回はタイトルの通り、ホーチミンのいろんな古地図をひっぱってきて順番に眺めていこうと思います。

古地図登場以前

最初に登場する古地図をみてみる前に、それ以前の略歴を簡単に。

  • 17世紀前後 ベトナム人が居住を開始。ベトナム北部を支配していた鄭氏(チン氏)と、南の広南阮氏(クァンナム・グエン氏)との間で200年近く戦争状態が続いていたなかで阮氏広南国から流出した難民たちが主。その何世紀か前からはクメール人が居住していたものの、次第にベトナム人が多数派となっていった
  • 1698年 広南阮氏の南進政策によりグエン・フー・カイン(Nguyễn Hữu Cảnh/阮有鏡)が現在のホーチミンを開拓
  • 1778年 広南阮氏を支援していた華人がグエン・フエ(Nguyễn Huệ/阮恵)率いる西山軍の攻撃を受け難民化、チョロンに移り住む
  • 1790年 阮朝を創建したグエン・フック・アイン(Nguyễn Phúc Ánh/阮福暎)がザーディン城(Thành Gia Định/嘉定城)を建設

お城と城下町とチョロン~1815年

お待たせしました。ここから実際に地図を並べていきます。

ザーディン城が完成し、チョロンができて間もないころです。ひときわ目立つザーディン城、現在の通り名でいうと北はNguyễn Đình Chiểu通り、西はNam Kỳ Khởi Nghĩa通り、南はLê Thánh Tôn通り、東はTôn Đức Thắng通り/Đinh Tiên Hoàng通りに囲まれた範囲内になります。だいたい1kmちょっと四方といったところでしょうか。城郭の東側と南側からサイゴン川までの範囲が城下町として広がっています。人口は1.3万人程度だったとのこと。

チョロンへはすでにNguyễn Trãi通りが、南北にはCách mạng Tháng Tám通りがしっかり走っています。また現在のHai Bà Trưng通りがお城の頭からぴょこっと出て、いまのフーニャン区やゴーヴァップ区まで伸びたのちぐるっとお城に帰ってきています。その環状路の中に書いてある漢字は「大和村」でしょうかね?

よく見ると川向こう、いまのトゥティエムの先端にも一部集落が見えるのと、さらに南のようにはサイゴン川の両端に砦のようなものも見えますね。また逆に北側には城壁が築かれているのが見えます。

また上の地図ではわかりにくいですが、すでにこのころからいまのグエンフエ通りは存在しており、ザーディン城とサイゴン川を結ぶ運河として運用。

現在のグエンフエ通り。「大きい運河」という意味のキンロン(Kinh Lớn)と呼ばれていました

ホーチミン(当時の呼称はザーディン)中心部の街並みはフランス植民地時代に形成されたと言われますが、ごのようにフランスに統治される前から一部の地域は開発が進んでいました。

フランス植民地化~1867年

続いて1867年の様子です。地図全体がフランス語で書かれており、この間にフランスに統治されたことが一目瞭然にわかります。現在の統一会堂とその裏のタオダン公園として運用されている場所が、当時は町のはずれの公園として既に整備されています。日本人には特になじみの深い現在のレタントン通りやタイバンルン通りもしっかり記載されています。

ところでどなたか気づいた方はいらっしゃるでしょうか?実は、お城の位置とサイズが変わっています。実は1833年から1835年にかけて阮朝内で内紛があり、古い方は破壊されてしまいました。新しく建造されたお城はもとの1/3ほどのサイズになり、北は同じNguyễn Đình Chiểu通り、西はMạc Đĩnh Chi通り、南はLê Duẩn通り、東はNguyễn Bỉnh Khiêm通りで囲まれた部分になります。

正確にはひとつ目の大きな方をフィエン・アン城(Thành Phiên An)、ふたつ目の小さい方がザーディン城と呼び分けるのですが、便宜上ほかの文脈では両方ともザーディン城としています。

なおこの新生ザーディン城も、その後フランスとスペインの連合軍の攻撃に遭い、1859年には陥落してしまいます。以降サイゴンはフランスの手に落ち、フランスの駐屯所としてしばらくその姿を留めていくことになります。

フランス建築続々誕生~1882年

かなり詳細な地図です。用途によって色分けされているところが非常に興味深い!日本人街のあるレタントン周辺は今でも海軍関係の土地が多いと聞きますが、これを見ると納得です(地図では青色で表記)。今ではVinhomes Golden Riverとなった場所はつい数年前まで造船所でしたが、こんなに前からあったとは。色こそついていないものの、1860年に開港した4区のサイゴン港も描かれています。

グレーで塗られたエリアは公共用途ですね。ホーチミン市庁舎のほか、ホーチミン市立博物館、ホーチミン市人民裁判所(この時点で既に裁判所!)、ホーチミン市総合科学図書館など現在も公共施設として残っているのが驚きです。1873年にノロドン宮殿として誕生した統一会堂や、1880年に完成したサイゴン大教会もここでお目見え。数少ない例外として、現在高島屋が入っているサイゴンセンターの区画は後にしっかり民間によって再開発されています。

ノロドン宮殿を望むノロドン通り(後のレズアン通り)

最初の項で紹介した現グエンフエ通りの運河もはっきり見て取れますね。運河沿いには、「中央市場」と書いてある場所が。ここはベンタイン市場の前身で、いまでは68階建てのビテクスコ・フィナンシャルタワーに生まれ変わっています。日系企業が集まるサンワ・タワーがあるところは「治安裁判所」というところだったようですね。北東の端には大きな共同墓地が。後のレバンタム公園です。

この時点で現在のホーチミン中心部のほとんど形作られているのがわかります。一方で、この段階では3区はまだまだ未開の地です。

鉄道と路面電車が開業~1896年

上の地図で紹介した代表的なフランス建築に一歩遅れて、サイゴン中央郵便局がデビューしています。この地図が作られた翌年、1897年時のホーチミンの人口は3.3万人。兵庫県朝来市、とか京都府南丹市、とかそんな感じ。どちらも生まれて初めて知りました(スミマセン)。

ここで目を見張るのが鉄道。現在の9月23日公園のある場所に鉄道駅が誕生しています。1885年に開業し、ミトーまで3時間半で到着したそうです。さらにはチョロン方面へと伸びる路面電車も開通しています。また、対岸の4区へは1894年に念願のモン橋(Cầu Mống/英語はRainbow Bridge!ステキ)が完成。

サイゴン=ミトー間を走った鉄道(1880~1890年頃撮影)

東の植物園は拡張され、現在のサイゴン動植物園と同じサイズになっています。

1898年のサイゴンの鳥観図です。圧巻の光景。サイゴン大教会が比較的高い建物として描かれていることを考えると、当時の空は本当に広かったのでしょう。路面電車がビンタインの方からやってくるのが微笑ましい。グエンフエ通りは埋め立てられて、普通の道になっています。

想像以上に長くかかる予感。。ということで後編に続くことにしました!

参考資料・画像引用元

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