大方のみなさんは「グエン・フック・アイン?誰それ?」と思ったと思います。歴代の英雄がその名を全国の通り名に留めるなか、グエン・フック・アインはベトナム最後の王朝・阮朝(グエン朝)の初代皇帝でありながら、フエ郊外の通りの一部にしかその名前を残していないのです。全国津々浦々どこへいってもグエンさんだらけなのに、そのルーツでもある阮朝はベトナム人の間では(少なくとも表向きは)あまり人気がないみたいです。
今回はグエン・フック・アインの壮絶なドラマと、そのへんの実態に迫ってみたいと思います。
データ
- 名前:グエン・フック・アイン(Nguyễn Phúc Ánh/阮福暎)
- 生没年:1762~1820
- 時代:陳朝~阮朝
- 在位:1802~1820
- 一言でゆってよ:一族みんな殺されちゃったけど外国と組んで全土統一した人
グエン・フエに滅ぼされた広南阮氏の生き残り
グエン・フック・アインは当時ベトナムを二分していた勢力・広南阮氏(クァンナム・グエン氏)の王族です。長年の争乱で国土が疲弊するなか、官僚たちは私利私欲に走り、民衆は疲弊しきっていました。その危機的状況に立ち上がったのがグエン・フエ(Nguyễn Huệ/阮恵)ら西山三兄弟率いる西山阮氏(タイソン・グエン氏)でした。西山軍は農民や少数民族を味方につけ、広南阮氏を攻め立てます。嘉定(ホーチミン)まで追い詰められた一族はほとんどが処刑され、広南阮氏は滅亡します。当時まだ12歳だったグエン・フック・アインだけがなんとか逃げ延びることに成功します。…なんか計算合わないんですが、とにかくまだ子供だったということです。
外国勢力を頼り、宿敵を倒してベトナム全土を統一
島々へと逃亡したグエン・フック・アインは諸外国に支援を頼みました。シャム(タイ)やフランスに援軍を要請し、ポルトガルやマラッカ(マレーシア)からは武器を購入、カンボジアからは兵力を調達するなど手を尽くします。しかしシャム軍と共同して臨んだラックガム・ソアイムットの戦いではグエン・フエの返り討ちに遭うなど、しばらく敗戦が続きました。
潮目が変わったのは西山三兄弟同士の対立でした。嘉定を奪回すると、フランス人たちが指揮する艦隊を率いて西山軍を撃破。グエン・フエが病死し兄のグエン・ニャク(Nguyễn Nhạc/阮岳)も憤死すると(憤死て…)形成は一気に傾き、20年近くの戦闘の末ついに西山阮氏を滅ぼします。グエン・フック・アインは嘉隆帝(ザーロン帝/Gia Long Đế)と名乗り、阮朝を創建。清(中国)から「越南」(Việt Nam)の国名を与えられ、現在のベトナムとほぼ同じ領域を支配した初めての全土統一国家を完成させました。しかし同時に、このとき外国勢力を引き入れてしまったことが、のちにベトナムへフランスの侵攻を許す遠因にもなってしまいました。
歴史に埋もれてしまった皇帝
なぜグエン・フエは「最も偉大な将軍」と讃えられ、20年来のかたきを取り広南阮氏を再興させたグエン・フック・アインは忘れ去られてしまったのでしょうか。それはグエン・フック・アインが諸外国と結託し、創建した阮朝がフランスによる植民地化を招き、最後の皇帝バオ・ダイ(Bảo Ðại/保大)の代までフランスの傀儡であり続けたからだと思われます。民族自決のために立ち上がったベトナム共産党が、そんな阮朝を許すわけにはいかないのです。事実、阮朝の歴代皇帝のなかで国内の主要な道路の名前として残っているのは、フランスに徹底抗戦した8代目ハムギ帝(Hàm Nghi/咸宜帝)のみとなっています。
時代が変われば評価も変わってくるものです。もし今の共産党に代わり民主主義の新政権ができたら、グエン・フック・アインももしかしたら歴史の表舞台に出てくるのかもしれま…おっと誰か来たようだ
参考資料
- 物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム(小倉貞男著、中公新書)
- Wikipedia
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