日本人街の名前として有名な、ベトナム中興の祖~レ・タイン・トン(Lê Thánh Tông)

road sign ベトナムの通り名

レタントン。あぁ、なんていい響きなのでしょう。レタントンに行けば日本人の欲しいものは何でも手に入ります。おいしいものが食べられます。お友達にも出くわすでしょう。スカイガーデンが恋しい。。

さて、ホーチミンに来たことのある日本人ならほぼ全員聞いたことがあるであろうこの名前。当然何した人かもご存じですよね?知らん?この人は後黎朝(後レ朝)の最盛期を築き、「ベトナムの中興の祖」とも言われるお方ですぞ。ファミマで人待ってるその数分間に、さらっとこの記事読んじゃって!

ところでホーチミンのみなさま、「スペル間違ってるよ!」とのご指摘ありがとうございます。最後のgが余計ですか?いえいえ、正しいのはこちらであって南部の綴りが間違っているのです。阮朝(グエン朝)3代目皇帝が、自分の本名の「宗(Tông)」を他のヤツが使うのはケシカランと言って南部の人に使用をやめさせたからだそうです。知るか。なお、かつて黎朝が治めた北部では、いまもこの綴りのままです。

日本食店やマッサージ屋さんが立ち並ぶホーチミンのレタントン通り(出典:The Smart Local Vietnam)

データ

  • 名前:レ・タイン・トン(Lê Thánh Tông/黎聖宗)
  • 生没年:1442~1497
  • 時代:後黎朝
  • 出身:ハノイ
  • 名前を冠した通りの所在地:1区(ホーチミン)、ホアンキエム区(ハノイ)
  • 一言でゆってよ:黎朝でいちばんイケてる人

後黎朝期の最大勢力を築き上げる

レ・タイン・トンは後黎朝第5代皇帝で、ホーチミン高島屋のある通り名としても知られるレ・ロイ(Lê Lợi/黎利)の孫にあたります。レ・タイン・トンの時代は後黎朝のなかでも最も輝かしい時代といわれ、明(中国)との友好関係は維持され国内は安定しました。対外的にも、南からはチャンパ王国(ベトナム南部を統治していたヒンドゥー系の王朝)の脅威にさらされていましたがこれを突破、さらにはラオスを征服し、後黎朝の最大版図を築きました。これまでのベトナムは北から中国、南からチャンパと「南北から挟み撃ち」の状態でしたが、レ・タイン・トンの時代以降チャンパはベトナム侵攻の力を失い、逆にベトナムは「南進」への一歩を踏み出したのでした。

国内の発展と文化面の充実を促進

レ・タイン・トンは国内の整備にも尽力しました。父であり、儒学に秀でた第2代レ・タイ・トン(Lê Thái Tông/黎太宗)が導入した科挙の制度に、試験の整備や資格の権威化を進め、その試験によって登用された科挙官僚の貢献のもと制度を確立していきました。官僚の質・数ともに増大したことで、特に史学やベトナム漢文学は大いに隆盛し、ベトナム各地の伝説を集めた書物やそれまでのベトナム史書をまとめ上げた書物などが世に出されています。日本でいうところの古事記&日本書紀の成立といった感じでしょうか。余談ですが、オリエンタルラジオ・中田敦彦さんのYouTube大学で発表されている古事記の授業はめちゃくちゃ面白いのでオススメです。

また、明を参考としてさまざまな制度改革を行いました。契約・遺言・相続・財産などに関わる民法では特に女性の権利を打ち出し、女性に資産保有を認め、遺産相続を等しく受けることや妻からも離婚できる権利などを定めました。公田の分配を細分化し、新しい土地の開拓や効率的な農業を促進した新しい土地制度は、以降500年近くものあいだベトナムに根付いていくことになります。

ハノイの文廟(国子監)に祀られているレ・タイン・トン

しかし世の中は諸行無常

外交面・制度面・文化面などあらゆる面で栄光を謳歌した後黎朝でしたが、第6代・第7代と早世が続き、レ・タイン・トンの死去から10年と経たないうちに第8代皇帝に政権が移ります。この8代皇帝レ・ギ(Lê Nghị/黎誼)が酒色におぼれて暴政を働き、自身に反対した家臣を次々に処刑したことで政情が一気に不安定に。世襲はこれが怖いですね。。その後、後黎朝は権力抗争や官僚の対立のなか、衰退していきました。

次回レタントンを訪れた際には、ハーゲンダッツでラムレーズンをほおばりながら、レ・タイン・トンの栄光の時代に思いを馳せてみたいと思います。

参考資料

  • 物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム(小倉貞男著、中公新書)
  • Wikipedia
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