ホーチミンNo.1メインストリートには史上最も偉大な将軍の名前?~グエン・フエ(Nguyễn Huệ)

road sign ベトナムの通り名

普段はホーチミン有数のオフィス街として栄え、夜間や週末には歩行者天国になり若者や観光客で賑わうホーチミン1区のグエンフエ通り。通り名につけられたグエン・フエさん、どんな人だかみなさんご存じですか?

数々のヒーローがひしめくベトナム史の中でも「最も偉大な将軍」として呼び声高いこの人、過去には旧南ベトナムの200ドン紙幣の肖像にもなっています。別名のクアン・チュン(Quang Trung/光中)も通り名になっていますし、ベトナム人民海軍がロシアから購入した警備艦にもその名がつけられるなど、ベトナム人なら誰もが知る人物と言えるでしょう。

若者で賑わう夜のグエンフエ通り

データ

  • 名前:グエン・フエ(Nguyễn Huệ/阮恵)またはグエン・ヴァン・フエ(Nguyễn Văn Huệ/阮文恵)
  • 生没年:1753~1792
  • 時代:後黎朝~西山朝
  • 出身地:ビンディン省
  • 名前を冠した通りの所在地(Quang Trung含む):1区他(ホーチミン)、ホアンキエム区他(ハノイ)
  • 一言でゆってよ:苦しい人たちのために戦ったら南北統一しちゃった人

はじめに

時の黎朝は力をなくし、弱体化した王朝に代わってベトナム北部を支配していた鄭氏(チン氏)と、南の広南阮氏(クァンナム・グエン氏)が実権を握り、200年近くも南北で争う状態が続いていました。どちらの政権もその首長や諸侯の贅沢三昧、官僚や地主による土地の私有化、重税と飢餓で庶民の生活は苛烈を極めていました。

…早くも両氏がやっつけられるフラグが立ちまくりですね。はい、ここで生活に苦しむ人たちのために立ち上がったのがそうですグエン・フエとその兄弟、西山阮氏(タイソン・グエン氏)です。

もうすでにグエンだらけというベトナムあるある。当然両者の主要キャラもだいたいグエン。両氏は本来無関係で、ここでは広南阮氏と西山阮氏と分類し、グエン・フエの兄弟もまとめて西山三兄弟とします。ちなみにグエン・フエは三男で、長男はグエン・ニャク(Nguyễn Nhạc/阮岳)、次男はグエン・ルー(Nguyễn Lữ/阮侶)といいます。

金ピカのまぶしい西山三兄弟

南の広南阮氏を滅ぼし、シャム(タイ)軍を撃退

西山三兄弟は周辺の山岳地帯の少数民族と農民を味方につけながら鄭氏・広南阮氏に対して反乱を起こし(タイソンの蜂起)、広南阮氏が支配していた中部地方を占拠しはじめます。これを広南阮氏討ちの好機と捉えた鄭氏は南に進軍し、富春(フエ)を占領。西山三兄弟は鄭氏・広南阮氏と同時に対峙することを避け、いったん鄭氏に仕える形で南に逃亡した広南阮氏を追跡します。南部の嘉定(ホーチミン)を攻め落とし、一族を処刑して広南阮氏を滅亡させますが、領主の息子で当時12歳のグエン・フック・アイン(Nguyễn Phúc Ánh/阮福暎)だけは取り逃がしてしまいます。

フーコックに逃げ延びたグエン・フック・アインはヴィンパールでしばしのんびりしたのち、シャム(タイ)とフランスに軍事支援を要請します。シャム軍の援軍を得たグエン・フック・アイン軍を迎え撃つグエン・フエは、相手を油断させたところに奇襲攻撃を仕掛け、一夜にして見事に連合軍を打ち破ります(ラックガム・ソアイムットの戦い)。グエン・フック・アインはシャムへ逃亡し、シャム軍はこれ以後ベトナム領土に侵攻することはなくなりました。

旧南ベトナムの200ドン紙幣を飾るグエン・フエ

清を追い出し、ベトナムを統一

続いて西山軍は、今度は北の制圧に乗り出します。鄭氏を追い出し富春(フエ)を占拠すると、さらに北へ進みもはや無力になっていた黎朝の守護を宣言。黎朝皇帝はグエン・フエを元帥に任命し、王女を嫁がせますが、西山軍はタンロン(ハノイ)を黎朝軍に任せてさっさと南へ戻ってしまいます。

放置プレイをかまされた挙げ句、歸仁(クイニョン)で西山兄が皇帝を名乗り始めたことを知り、黎朝皇帝は清(中国)に助けを求めます。清からすれば、歴代のベトナム皇帝は中国を親分と認めていたわけであり、中国に挨拶もないまま勝手に皇帝を名乗る不届き者は放ってはおけません。

そこで清はスネ夫を助けるジャイアンの如く、大軍をもってタンロンを征服。ここでベトナムが再度外国の手に渡ってはならないと、またしてもグエン・フエが立ち上がります。自ら皇帝クアン・チュンを名乗り(皇帝多すぎ!)、グエン・フエの西山軍は大砲を担いだ象を率いてタンロンを奪還、住民は歓喜を持って彼らを迎え入れたといいます。黎朝皇帝と鄭氏一族は清に亡命し、黎朝も鄭氏も滅亡したのでした。

こうして400年近く続いた黎朝期に終止符を打つとともに、200年にわたり南北対立で混乱したベトナムを平定することにグエン・フエは成功したのです。

ハノイのドンダー公園にあるクアン・チュン像。でかい!

軍事面にとどまらないグエン・フエの功績と早すぎる死

グエン・フエは権力を握ると、長年の戦乱によって崩壊していた農業の復活に着手します。鄭氏・広南阮氏が所有していた休閑地を没収、鄭氏の時代には官僚や軍人に優先的に配分されていた公田を主に農民に配分し、わずか2年で農業生産を平常化させます。また手工業や交易の発展に努め、鄭氏の時代とは逆に中国やヨーロッパに対し開放政策をとりました。

文化面では、数世紀にわたって使用されていた中国の古典文字から、ベトナム語の発音に基づき独自の漢字を使ったチュノム(Chữ Nôm/字喃)を公文書の言語として採用しています。同時にカトリック宣教師を迫害しないことも定めました。

そんな文武両面で活躍したグエン・フエですが、ベトナムを平定してからわずか3年後、白血病により39歳でこの世を去っています。この早すぎる死は、のちにグエン・フック・アインの逆襲を許し、西山朝の滅亡を招いてしまうことになります。その話はまた今度。

また、グエン・フエは阮朝へとつながる広南阮氏を滅ぼしたことで、20世紀前半までは長らく敵将・反逆者の扱いを受けていました。江戸幕府成立後に徳川家康が豊臣秀吉を必死にこき下ろしたように、評価が時代によって変わる・変えられるのは世の常ですね。全国統一を成し遂げながら政権が長く続かなったところも、秀吉に微妙に重なる部分でもあります。

ちなみにホーチミン1区のグエンフエ通りはやたらと道幅が広いですが、もともとは1790年にグエン・フック・アインが建設した嘉定城とサイゴン川を結ぶ運河で、「大きい運河」という意味のKinh Lớnと呼ばれていました。その後ベトナムを占領したフランス人によってお城は破壊、運河は埋め立てられてCharner Avenueとなったのち、1956年に南ベトナムによって現在の名前に落ち着いています。

1867年の古地図にはお城が見えます
運河時代のグエンフエ通り。 「大きい運河」という意味のKinh Lớnと呼ばれていた

参考資料・画像引用元

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